虚無日記

ニヒリズム

大学生活と嫌いな古典の話

 

おつかれ〜

 

どこでもドアがあったら南極に繋げてドアを開け放し、冷房代を節約する妄想が捗る季節がやってきましたね。

 

ところで

みなさん、古典は好きですか?

 

 

 

私は人並み程度には嫌いです。

 

 

 

さて、そんな私ですが大学生活最後の一大イベント、卒業論文の題材に選んだのは新古今和歌集でした。

 

新古今和歌集

新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)は、鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。いわゆる八代集の最後を飾る。略称は『新古今集』(しんこきんしゅう)。

             Wikipediaより

 

私がなぜわざわざ嫌いな古典文学を題材として卒業論文を執筆したのか。そんなことを思い出したので備忘録も兼ねて。下記にまとめます。

大学生活の備忘録を書くにはあまりに時が経ちすぎているような気もする。

 

 

 

大学の授業は割と嫌いでは無かった。

小さい頃から本が好きで国語が得意だったし、教育とかにも興味があったので、国語学と教職課程をメインにしたカリキュラムは忙しいながらも学びが多かった。

 

しかし、読む本といえば近代文学現代文学なものなので、国語の二大嫌われ要素の「古典」「漢文」は、例に漏れず苦手意識を持っていた。

大学の授業は、大抵時代ごとに区分された文学+言語学に分類され、得意な時代を中心に履修することが出来るが、一通りの時代を必修科目として選択しなくてはならないシステムになる為、必然的に古典や漢文にも触れる羽目になる。

 

ただし、古典や漢文を受け持つ教授は、学生が苦手意識を持っていることは承知していることが多い。

私が3年生になり、演習型の科目で選んだ中古文学の教授もその1人であった。

 

簡単にいうと、新古今和歌集などの中古文学は貴族の文学である。

貴族の文学を研究しているその教授は、まるで雅を纏ったようなご婦人。綺麗で鮮やかな色のワンピースと、上品なパンプスが印象的で、夏の暑い日でも黒髪を下ろし、涼しげな顔には濃いピンクのリップがいつも目立っていた。

教授は、オリエンテーションで、体があまり強くないので、休講も多いかもしれません、とポカリスエットを一口飲んだ。休み休みながらも、彼女はよく喋った。

 

優しく、上品な教授の授業は、正直に言うと、俗に染まりきったジャンクフードの排水溝みたいな私には合っていたとはあまり言えなかった。住んでいる世界が違う人の高貴な文学だから、理解ができないだろうと思った。

他の教授が、あの先生はこの学校で1番の雅ですよ、と仰っていた。

 

 

教授が、最初に持ってきた題材は百人一首

簡単に言うと和歌が100個書いてある奴です。

 

教授は、なんだか掴みどころのない事ばかりをいう。言葉のひとつひとつがなんだか抽象的で、それこそ古典を読んでいるみたいだった。

 

好きな一首を研究して、20枚くらいのレジュメを作ってくださいね。皆さんで発表会をしましょう。

 

まるで蓬莱の玉の枝を求めるかぐや姫が如く、何を調べるのかも、どういう書き方をするのかも雲を掴むような説明をした後、ほんのりと香水の匂いだけを残して教室から去っていった。

 

教授のゼミは優しくて熱心だが、なかなか要求の意図が掴みにくく、発表も多いので時間が取れない人はオススメできないよと風の噂で聞いた。

 

結局私はどう頑張ってその発表を乗り切ったのかさえ、イマイチ覚えてはいない。

ただ、選んだ一首、その背景は思い出せる。

 

教授は、恋を詠んだ和歌が大好きだった。まるで恋バナをする乙女のように、歌人たちの話を熱心に聞かせるのである。

対して私は、恋バナ、ましてや他人の恋に心底興味がなく失礼ながらも恋の歌だけは担当したくないと言った。死生観とか、生き方とか、そういうものに興味があったので、そういった一首を選んだ。

 

教授は素敵ね、いい歌よ、と選んだという行為を働いただけの私を沢山褒めた。

 

 

 

花さそふ嵐の庭のゆきならでふりゆくものは我が身なりけり

        入道前太政大臣(西園寺公経)

 

訳: 嵐が庭に散らしている花吹雪ではなくて、降っているのは、実は歳をとっていくわが身なのだなぁ。

 

 

 

ふりゆく、いうのを花が散ることを指す降る、と年老いていく自分を指す古る、を掛けた歌だ。

 

栄枯盛衰を示したような上記の歌を、歌人の歴史上の立ち位置とか、政治的な背景とか、勅撰理由とか、色々調べてレジュメを作った。

 

言葉を掛けて歌を作るのが面白いという文化がラッパーじゃん、と思って面白かったし、なかなかお気に入り。

 

国語の教授たちは一貫して好きなことばっかり研究しているので、面白そう、興味深いなと思ったことだけ研究すればいいんだよ、ちょっと覗いてみて、向いてなかったら次に行っていいんだよというスタンスを持ち合わせいる場合が多く、苦手な古典でもなかなか気楽にできたと思う。

なんとなーくお気に入りかもってことが沢山あるとなんか楽しいよね〜みたいな感じです。

 

なんとなーく古典にも気になるところあるな〜って思わせてくれた。

 

その後の発表では、教授はなかなか抽象的な問題を投げてきたりした。

 

皆さんが選んだ和歌で、和菓子を考えて欲しい!

 

とか。

でも、学生は皆慣れてきて、うまく対処していた。

私もかなり教授のメルヘン脳を真似るのが上手くなってきていて、七夕の天の川を金箔で表現した錦玉羹を考案して提出した。

 

教授はまた、素敵ね、素敵ねと微笑んでいた。

 

3年が終わり、ゼミを決める頃、ずっと国語学で教育の論文を書きたいと言っていた私は、一転して先述している彼女の元で、古典文学と教育で論文を書くことを決めた。

古典が好きになったわけではない。苦手意識は強い。

しかし、卒業したら確実に一人で古典には触れないだろう。それならば、気になっていているものが学べる今、挑戦してみようと思ったのだ。

 

4年生になり、いよいよゼミが本格的にはじまると決まった頃、教授は、病気で亡くなってしまった。

 

世界で一番の高貴で教養高い、雅なご婦人だった。

私は、国語学のゼミに入ることになった。

かつてやりたかった、現代文学国語学を専門にしているゼミだったが、私は、そこで新古今和歌集と教育を論文にまとめた。

 

彼女が、素敵ね、いい題材ね、頑張ってね、と褒めてくれた新古今和歌集と教育だ。

 

 

国語学の教授は、新古今和歌集は専門外だから、一人で調べることも多くなるかもしれないけれど大丈夫?と再三尋ねたが、結局、親切にも私の研究を沢山幇助してくださった。

 

 

 

今でも私は、習慣的に本は読むが、案の定古典文学には手を出さない。

 

 

ただ、大学生活で、苦手なものというジャンルから、面白いところもあんだけどね、アイツ。

みたいなポジションへと変わったのであった。

 

 

来月あたり気温75℃くらいになりそうじゃない?

 

シロクマのことが心配です。

 

 

おつかれ